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アートスペース走り書き_04
内野ゆきな写真展「見上げると 水面は 凪いでいる」 [〜3月15日迄]
今はもうない福岡市東区の雁ノ巣飛行場の格納庫をその内部から撮ったこの一点。
すでにこの時ですら、じゅうぶん廃墟の佇まいだ。たぶん30年くらい前だろうか。
これはその頃の古いネガから今回プリントし直したらしい。
そこにあるのは「記録」とも「記憶」だともいえない半端な意識と置き去りにしたままの時間である。
だとするなら、そこにはまだ若かった彼女自身がそのあいだにいたのだという
現在からの告白になっているのかも知れない。
海も近いその格納庫は、素っ裸で泳ぎ遊んだ若いころの僕にとっても懐かしいものだが
知らない人にはただの廃墟然とした、うらぶれた風景でしかないだろう。かといってこれは、
ありふれた日常でも何気なくすれちがった風景でもない。その時その場所にしかなかったものだ。
それでも、記録でも記憶でもないのなら。では、写真そのものって何なのだろうと思う。
つまりそのどちらでもないのなら、それを津田 仁 的にいうなら〈名のない時〉というしかない。
たとえその被写体が固有名を持ち、あるいは特定の場所であったとしても。
だから写真は宙に浮く。名状しがたいものとなって、この現実とは異なるものを
私たちに見せてくれる。それにどれほど親しみ、いとおしい人でありモノであってもだ。
すれ違った誰か、通り過ぎたどこかに、また時を経て再会再帰することに
私たちは気づいているのだろうか。
内野ゆきなの写真を見ていると、そんな声なきこえがあちこちから聞こえてくるようだ。
失われた時を求めているのは、いったい誰なのだろうかと。
(元村正信)