元村正信の美術折々-2020-05

明日なき画廊|アートスペース貘

2020/5/30 (土)

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美術折々_276

あの濃密な時間だけがまだ

ある知識人は言う。「接触を避ける新しいコミュニケーションを創造する必要がある」と。
またある者は「人と人が出会う可能性を減らしていくことだ」と言う。

ではこれまでの人間どうしの親愛なる関係の蓄積や、向き合った会話の数々は何だったのかと。
そんなにいともたやすく、私たちは変われるのだろうか。

じゃあ、悲惨で欺瞞に充ちたこのひどい国も社会も、これで生まれ変わるというのか。
「新しい生活様式」や「新しい日常」と「新しい距離」によって、それらが帳消しにされるのか。
あるいは「日常」を取り戻すとはどういうことなのか。いまが異常だからか。たしかに異常だ。
だがこんな異常も当たり前とするなら、それもすでに充分に日常になっている。

もし「密閉・密集・密接」を避ける生活の慣習を、「新しいスタイル」というのなら。
それこそこれまでの人間の関係のすべては清算され、やがて崩壊するしかないだろう。
なぜひとは、場を求め、集い群れ、接し、体ごと表現して来たのか。
それはそうする必要も必然もあったからだ。

つまりそれらを改め更新するということは、これまでの人間の接触や移動の交流の仕方を否定的に
乗り越えねばならないということになる。濃厚接触にたよらない社会の実現が目指されようとしているが。
人には頼らない、人を必要としない世界のありようが、巨額の無限赤字国債を抱えて試行されている。

あの濃密な関係とはいったい何だったのか。ときに性交であり恋愛であり家族であり
人と人との関係をそう呼んでいたのは、ついこのあいだのことだったはずだ。

もしかしたら、時が止まったのだろうか。
生産も消費も成長も労働もそして生も死も、あるにはある。
悦びも悲しみも苦しみも怒りもそして笑いも、あるにはある。
それでも無理やりに、すべてがただ虚しく空回りしているんじゃないだろうか。

世界は最悪だったあの頃に恢復するのだろうか。いや誰も最悪になんて戻りたくはないのだから。
もしも時が止まったのなら、私たちは時と時のあいだを生きて行くしかないのだ。
しかし時と時のあいだの距離を、いまだ誰も知らない。

ただ、行き場を喪った〈濃密な時間〉だけがその距離という間を彷徨っている。

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2020/5/24 (日)

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美術折々_275

天賦の才と華の彼方

すでに周知の通り5月21日、福岡市を拠点に活躍してきた画家の菊畑茂久馬氏が肺炎のため85歳で亡くなった。かつて前衛美術集団「九州派」に参加して以降、1960年代日本の「反芸術」にも名をしるした作家のひとりであり、1983年から東京画廊で発表された絵画『天動説』シリーズ以降の歩みは知られる通りだ。氏についての評価はもちろん、作家や美術関係者でなくともファンも多く、改めて紹介するまでもないだろう。

だからここでは、氏への敬意を持って僕なりに二つのことのみを記しておきたい。

まず一つ。それは僕が知るかぎり九州派以降の1970年代からこの45年以上、福岡にある画廊やギャラリーでは、菊畑茂久馬の新作を見る機会はほとんど皆無に等しかったこと。わずかに1979年に天神アートサロンで版画集「オブジェデッサン」展が開かれているらしいが見逃しているので、実際に僕が見た記憶は80年代前半、りーぶる天神という書店の一角でこの版画集「オブジェデッサン」の展示販売と、他には赤坂画廊と天画廊での二つの個展。あと異色なところで言えば、呉須で絵付けした有田焼の大皿による天神のNICでの個展ぐらいだろか。今はもう、どの場所も残ってはいない。

つまりこの間、福岡の若い作家や美術学生たちに限るならどの世代も幸か不幸か、菊畑茂久馬のオブジェそのものを含め各時代の新作から直接の影響を受けなかった、受けようがなかったのである。なぜ福岡の大学の芸術系学部や学科は、彼を教師として迎えなかったのか。独学だったからか。画廊のほとんどは、なぜ彼の作品をまとまって紹介できなかったのかと思う、最後まで。残念でならない。ただ、じかに作品に接することの少なさに比すれば、福岡でこその彼の著作物をはじめ地元新聞寄稿記事や雑誌、講演やトーク、TVなどでその考えや発言を聞く機会は意外と多かったので一般にも知名度と人気は抜群だった。

もちろん1985年の福岡県立美術館の開館展以降、88年の北九州市立美術館の大規模な個展と2011年の福岡市美術館(長崎県美術館と共催)での回顧展、それに07年福岡県立美術館での〈物〉語るオブジェ展もあり、88年以降の「九州派」関連の企画展や常設展でも合わせて氏の作品に「事後的」に触れることはできたが。むしろ30年間に渡って月一回福岡から上京し教えた美学校の学生や東京の作家たちそして関係者のほうが、菊畑の新作に触れる機会は圧倒的に多かったのは皮肉というべきか。

そしてもう一つは 3年半程前つまり2016年12月、福岡天神の書店 Rethink Booksでの「釜山ビエンナーレ2016」報告—アジアの中の日本・前衛・美術— と題したトークイベントでのこと。トークは、美術評論家・椹木野衣、画家・菊畑茂久馬、福岡市美術館学芸員・山口洋三の3氏によるもの。その話しの中で、今では菊畑茂久馬の代表作とされ、日本の前衛美術を語る上で重要な作品のひとつと言われる1961年の、あの二本の丸太と大量の五円玉を使った作品『奴隷系図(貨幣による)』のことに触れ、これを発表後「作家として恥ずかしい」、「この世から消してしまわないといけない」と思っていたと。このとき81歳の菊畑の口から目の前で初めて聞いたこの言葉は、僕には驚きだった。

しかし結局は東京都美術館からの依頼によって1983年の再制作となる。もう37年前になるが、僕もそれを当時の東京都美術館の『現代美術の動向 Ⅱ 』で初めて見たが、作家にとっていわば失敗作と思えた原作が、時を経た〈再制作〉によって皮肉にも代表作として位置付けられ伝説的に語られるようになってしまったのである。
むろんそれは同時に、菊畑の「絵画」への帰還と、19年の沈黙からの復帰があったことは言うまでもない。

僕はいまこうして二つのことだけを書かせてもらった。すでにメディアを始めSNS上でも多くのコメントがupされている。おそらくもうすぐ誰かが追悼文を書かれることだろう。いずれにしろ天賦の才と華のある作家だったと思う。ただ森山安英の次の言葉が離れない。「菊畑さんやらは自分の素顔を見せるようなことはないですから」(『森山安英─解体と再生』図録 2018 )。

だれもが孤独であるにしても、幼きより天涯孤独を生きた「絵描き」のそれは一体どのようなものだったのだろう。少年菊畑にとっても敗戦後75年が経ったのだ。前衛も反芸術もそして現代美術も、もう今はない。
菊畑茂久馬はこれらすべての崩壊をその眼で見届けた後、それらを静かに追憶するように逝ってしまった。
残された僕たちに、まだ〈芸術〉はあるのだろうか。もしあるとしてもそれは、どんなものなのだろうか。

五月の空は余りにも眩しすぎる。
菊畑さん、どうぞ安らかに。

2020/5/17 (日)

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美術折々_274

記憶の中に残る味

Film Deracineのキース吉村氏が 福岡市中央区天神の水鏡天満宮横の路地に昔あった
喫茶「ばんぢろ」(1949-1998)のドリップコーヒーの思い出を今朝のFBで触れていた。

僕が出入りしたのは高校から大学までの1970年代の10年間ほどだったけれど、
ここの珈琲は独特の濃さと香りそれに苦味を持つものだった。
カウンターもあったが、奥の広くはない半地下になったコンクリートの床と冷たいビニール張りのソファ。
そこには少し湿り気の混じった空気とともに、いつも紫煙が立ち込めていた。

窓のないその半地下というのが、どこか隠れ家かアジトのようで、まさにアンダーグラウンド。
僕ら両切りのshort Peaceを喫う若者だけでなく、きっと怪しい人たちや作家もどき、あるいは
吉村氏が言うようにそれこそスノッブな文化人と呼ばれる連中も出入りしていたに違いない。

すぐ近くにはまだ福岡アメリカンセンターの白い瀟洒な建物もあり、福岡の若い作家の個展や
映像展をはじめ、多くのアメリカ実験映画や現代美術関連のスライドショーや講演も頻繁に行っていた。
来日したクリストやドナルド・ジャッドのトークもワイン片手にすぐ間近で直に聞けたものだ。
それらの帰りは余韻を引きずりながら、僕らは決まって「ばんぢろ」でその続きを語り合うのがつねだった。

こういう記憶は、何かのきっかけがないと自分からは中々思い出さないもの。
それを引き出してくれたのは、ほぼ同世代の吉村氏が同じ空気を感じそれを呼吸していたからだろう。

いまの新型コロナウイルスの「空気」のなかで、若いひとどうしが愉しむ珈琲の苦味や
アルコールの刺激は、いったいどんな味として刻まれ記憶の中に残っていくのだろうか。
埋めようのない空虚にも似た味のことを、いつか聞かせてほしい。

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2020/5/13 (水)

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美術折々_273

試行は錯誤そのものなのだろうか

いまだ不条理演劇の傑作といわれるサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』
(二幕からなる悲喜劇)。

ウラディミールとエストラゴンという二人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ちながら
ふたりの会話は延々と続くが、ゴドーは来ない。
ほとんど何も起こらないと言ってもいいくらい空虚なまま、そしてゴドーは現れないまま
二幕の劇は幕を閉じるが。いやそれさえ「終わった」と言えるのかさえ分からないままに。
見えないゴドー Godot はだれか。それは神か、いや神はすでに死んでいる。では見えない恐怖か。
いろんな解釈がある。ゴドーとはいったい何か。ベケット自身も答えてはいない。

でもなぜ僕は『ゴドーを待ちながら』を唐突にも思い出したのだろう。
それはいまの私たちに蓄積され広がっているようなある種の〈空虚さ〉をどこかで重ねてみたのだろうか。
日々抑圧された欲望でさえ、それは私たちの自意識をどう歪めているのか。

劇中で「きょうは来ないが明日は来る」と少年は伝えるが、永遠にゴドーは来ない。
もしかしたらそれはゴドーではなく、ただ「明日が来る」からという意味だったのか。

このいまの、未知の感染いや現実をまえに。明日は本当に来るのだろうか。
疑心暗鬼のノイズが増幅されては、同調圧力の歪みとしてさらに敵対的に現実を歪めていく。

私たちは何を「待って」いるのだろう。たしかに「終息」には違いない。
だが終息を保障するものなど、どこにもないし。
いつ静まるとも言えない不安が、こころのどこかに棲み着いてしまったようだ。
私たちは見えない「ゴドー」を待ちながら、まだ試行は錯誤そのものなのである。

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2020/5/10 (日)

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美術折々_272

守れないかも知れない約束

これでもかこれでもかというくらい、ネットもメディアも感染症下の言説で持ち切りだ。
僕のこの日々もきっとそのひとつなのだろう。街かどの市民から芸能人や文化人そして専門家、政治家まで。
入れ替わり立ち代わり、また皆早口で。まるで洪水のようにリモートな声と情報が溢れ返っている。
だれもが、何とかしたい、して欲しいと繰り返し訴える。そうやって日々は取り返されることなく過ぎていく。

症状は検査はマスクは治療薬の副作用はさらに助成金はどうなってる とにかく金を。
いや感染だ生活だ経済だと。不安、猜疑心、怒り、変わらない利己的主張と欲望、そのどれもが
やり場のない私たちの本心であるわけだが。

このパンデミックは逆に国境を境界を強固にし、国家は自国民を心理的にも統制しようと躍起になる。
その端末では個人ひとり一人の行動の良心が裁かれ、まるで善悪の審判であるかのようなところまで
「恐ろしい静寂」の圧力が強制が、知らずしらずに浸透していた。いったい私たちは何を望んでいるのだろう。

もしも支援が補償が足りなければ、生活が立ち行かなくなるのなら、失業するか困窮の果てに置き去りにされ
遺棄されるしかないのか。けっきょくどこまでも弱肉強食は冷徹なほど、この格差的市民社会を貫いている。
いまは最悪か、いやさらなる最悪か。いやいや、あたらしい最悪がどこかで芽生えているだけか。

もしかしたら私たちは、とんでもないあやまちを犯しているのではないだろうか。
間違った判断をしているのではないかしら。これまでの日常が突然奪われたのではない、
私たちは協力し自粛し協調しそうやって徐々に自ら手放したのだ。これまでの生活を。

しかしこんな状態がずっと続くわけがない。それは今を耐えてさえいれば、やがて感染症も収まるだろうということではない。なぜまっとうで、ささやかな生存さえもが、制限され抑圧され封殺されねばならないのか。
でなくば じつは感染症の正面突破しかないのだ。それがダメなら、これまで散々虐げられそれでも健気にも
法を公共の福祉を守って生きてきた私たちの生存の未来を一体どう贖う。

あまたの虚偽や欺瞞や搾取で積もり積もってしまった、1100兆円を超えた私たちの生活赤字はどうなるの。
いま政策という名で次々と投入される支援や助成の負債が、やがてこの1100兆円の赤字の上に累積されることは分かり切っているのだ。それでもいまを生きようとしている私たちの世代だけの借金の問題ならまだいい。
あれほど繰り返し未来の世代へのツケ[負債]を残すなと言われていながら、なすがままの私たちのなんて無力で非力な〈生活〉というものを思うのだ。だがもう過去には戻れないのに。そのように誠実で勤勉な納税者たちよ、けして死んではならぬ。生きて復活してくれと励まされる、私たちというもの。

この邪悪な世界の COVID-19 たちを駆逐したあかつきには、三密の税収源に帰ってきてくれ。
だからいまは、ただただきょうも我慢してくれ。きっといい日が来る、守れないかも知れないが約束する、
それだから約束するのだ。

2020/5/4 (月)

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美術折々_271

生存権としての芸術(4)

でも私たちの《芸術的生存》が、かりに文化的=最低限度の生活を営む権利つまり「生存権」の中に保護されるものであったとして。じゃあその確たる規定も基準もなく生活水準の相対的向上とともに拡張され続けることになる「文化」が、なぜ生存権のなかに挿入されたのだろうか。敗戦からの復興になぜ「文化国家」をかかげたのか。ドイツという文化国家の先行形態を手本にしたにせよ。

たとえば フロイトは「文化は、人間たちを緊密に結束した集団に統合するように駆り立てるエロースの内的な権力に従っているので、罪責感をさらにいっそう強化するという方途によってしか、この目標に到達することができないのである」(『文化の中の居心地の悪さ』岩波書店)と述べている、1930年のことだ。これはまるでフロイトが、来たるべき戦後日本の「文化国家」採択への希求に沿って解説したかのような文である。

罪責感とは罪の意識、つまり「後ろめたさ」である。それは日本にとって第二次大戦での死者数310万人以上ともいわれる犠牲者に対する生き残った者の後ろめたさ。ニーチェ的にいうなら「良心の疚しさ」でもあった。二度の原爆によって終止符を打った生死の闘いの負債が、戦後日本において「文化」という超自我に引き継がれたということは、戦争というものの傷痕の転移を「文化的」生活は予め背負わされていたのである。

そのような文化的生活の営みの出自がどのように最低限度であったかは計り用もないが、復員と焼け跡と困窮と混乱からの未知の再起であったことだけは確かだろう。それでもどんな度合いにおいて戦後生活に文化的希望は託されたのか。物的にか精神的にだろうか。

文化というなら、戦争に動員され翼賛した美術や芸術への戦後的批判や否定をもって手を返したように反転し生きながらえた文化人たちが、そのまま戦後文化の向上に迎合したことを思い返せば、文化的生存の位置付けはもっと複雑になる。

ちなみに日本の「文化国家」標榜の手本となったドイツ憲法は、基本法 5条3項において「芸術および学問の自由の保障」として規定され、芸術の存在が明確に位置付けられている。憲法学者のクラウス・シュテルンは、芸術の自由について触れながら「法律によって形成されて存在するのではなく、事の本質によってのみ形成され存在する」(講演『ドイツ憲法における芸術と学問の自由』於:早稲田大学 2011年)と、法に先立つ芸術の自律性を語っている。

だとしても。私たちの日本国憲法上では一語の文言もなく「保障」もされてはいないこの国における〈芸術〉の寄る辺なさを思うとき、文化的=最低限度の生活に見い出されるべき《芸術的生存》は、いまだ未明の不確かなものとして放置されたままなのである。「事の本質」はそこにあるけれど。

だからこそ未知なる〈芸術のかたち〉は文化的な最低限度の生活の営み、すなわち芸術的生存の基底を自らが批判的に乗り超えて行かなければならないのだ。クラウス・シュテルンが言うように、それは法律によってではなく〈芸術〉そのものの抵抗する力によって。
                     (了)

付 :
いま私たちの生活は暮らしは、けして新型コロナなどというものに「むしばまれている」のではない。
断じて国家が言うような「コロナの時代」などではない。
私たちの時代が、感染症と出合っているのである。
わたしたちは《生存》の真っただ中にいるのです。

われを五月に。

2020/5/1 (金)

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美術折々_270

生存権としての芸術(3)

しかしこの生存権。文化的といい最低限度といっても、何が文化で何を最低限度というのかは明確な規定や基準がある訳ではない。つまりその判断は相対的なものでしかないということだ。それでも敗戦後の日本が、戦争によって困窮をきわめた衣食住の先に求めたものが単なる生活の維持だけではなく、より「文化的」であらねばならないとする国家目標であったことは確かだろう。

僕は思う。戦後日本の〈生存権〉として最低限度の生活を営む権利の中に、当初のGHQの憲法草案にはなかった「文化」という言葉が概念が挿入されたことは、これは同時に西欧近代において教育・科学とともに文化の主要領域のひとつであった「芸術」というものが、この日本においてもまた戦後の生活の営みとしての核たる生存のなかに、自覚的かつ法的に位置付けられたのだと。

つまり《芸術的生存》の権利が、文化的という名においてはじめてこの国で法的に内在化されたと言えるのではないか。たとえそれが文化内無意識であったとしても。もちろん認定判断的には「最低限度の」という程度においてのことなのだが。もう75年前のことである。

ではこの「芸術的生存」は進化したのだろうか。たとえば、憲法第21条に自由権として明記された中の「表現の自由」。昨年のあいちトリエンナーレでも再び表面化した表現をめぐる自由と不自由は、国家による介入を拒否すると同時に国家は公共の福祉を理由に、ときに表現を制約しようとする。

これはアートや芸術を含む表現の自由を保障しながら、かといって無制約的に保障するものではない。何を自由とし何を不自由とするかは、法的にもつねに争われてきた。それは「自由」もまた定義できないからだ。どこまでも自由は獲得されるしかない。

その意味で「表現の自由」は、つねに闘争的である。それでは生存権としての《芸術的生存》の権利はどうなのだろう。これは社会権として国家に依拠してその実現が図られる権利であるから、むしろより親和的なのである。

表現の自由においては、それが侵害されることがあっても、生存権においては各種保険・年金・福祉・衛生・環境保全等の法的具体化によって護られる「生活」の営みに、芸術もまた最低限度の生存が実現されるべきものだから、少なくとも文化的存在である「芸術」は、そこに〈生存の活動〉としての法的根拠が認められると、僕は解釈するのだ。

再び言うなら。「生存する」とはどういうことか。それは「いま生きているのだという瞬間を一瞬でも実感できる」ことだと。しかし「芸術」が、はたして健康で文化的といえるかどうか僕は、こころもとない。むしろ時に非健康的で病み、あるいは反文化的であろうとするかも知れないのだから。

それでも芸術は、なぜ芸術のかたちでなければならないのか。そのようにあろうと生存し、存在し、活動しようとするのか。それを「最低限度の生活の営み」のなかで、生産である前に/必要である前に、そして表現である前に〈芸術のかたち〉というものを試行したいと、僕は思っている。

そのような〈芸術のかたち〉は、おそらく私たちの最低限度の《生存》の根底にこそ見い出されるはずである。

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