元村正信の美術折々-2016-12

明日なき画廊|アートスペース貘

2016/12/31 (土)

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美術折々_81

2016年の暮れに

ことし一年、『元村正信の美術折々』を読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
いつもおなじことばかりを繰り返し言っているだけのようですが、それにはそれなりの抵抗があるのです。

僕はつねづね、「現在」というものは「現在の批判」でなければならないと思っているひとりです。
だから僕が何かを描き、制作し、考え、語ろうとする「美術」もまた「美術の批判」でありたいと考えて
います。現状肯定をよしとしないこと。ラディカルな否定性を、なおもみずから持ち得ているかと問い続ける
こと。

そのような志向は僕が20代の頃、1970年代に出合った今は亡き「現代美術」から学び、受け取ったものです。
「現代」を喪失した「美術」の現在というものを、自らの作品を含めどうしても見極めたいと思っているの
です。

世界を席巻する圧倒的なグローバリズムの奔流は、資本の絶対的優位という新自由主義の名のもとに民族や
人種をこえた多文化的〈格差〉として、あらゆる人間関係を差別化し二極化させ腐蝕し続けてやみません。

私たちの「芸術」もまた例外なく、このような経済的制裁とその応酬という甘い蜜のように強大な力によって
切り刻まれています。しかしどのように切り刻まれようと、「芸術」は「芸術という抵抗」をとおして、この
虚偽と欺瞞にみちた世界に対してみずからの自律を実証しなければならないのではないでしょうか。

けれども問題は、当の「芸術」がいまだ定義しえず、「実証」されてはいないということなのです。
「芸術」=「アート」ではないのです。だからこそ私たちは、「なんでもアート」、「だれでもアート」、
無条件の「体験と交流」といった文化振興や文化芸術を通した活性化の口当たりのいい甘言には、留保を付けて応じなくてはならないはずです。

はたして、いつでも「誰にでもこころはひらける」ものなのでしょうか。この商品信仰の甘い勧誘のフレーズには、やはり無理があるのではないか。人の心というものは、いつも開かれてはいるけれど、同時に閉じられてもいます。そのつど、ためらいや拒絶をさえ繰り返しているのです。

私たちの芸術が、これから成りうるかも知れない「芸術」になるためには、やはり芸術みずからが、この現実
という虚構を、(例えば「墜落」を「不時着水」と、堂々と正当化できる現実を)、どうしても突き抜けなくてはならないのです。どのように芸術が商品化(売買)されようとも、芸術は自らその商品を批判できる形式と
内容を持たねばなければならない。いいかえれば、そのような矛盾を抱え込むものでなければならない。

僕の「絵画」が、「作品」が、どこまでそれを実現できているかというと、たいへん心もとない。
だが、このような営みが、どこかで誰かの目に触れ、いつの日にかそこに届くだろうと信じてもいる。
そして現に、見てくれるひとがいる。こうして年の暮れに、さまざまのことを噛みしめつつ。

2016/12/25 (日)

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美術折々_80

おめでとう40周年、「屋根裏貘」

「アートスペース貘」右奥のカフェ「屋根裏貘」が12月24日(土)、1976年のオープンからちょうど
開店40周年を迎えた。これまで多くの人たちに支えられての40年だったに違いない。思えば学生街の小さな
喫茶店のひとつだった1972年の「貘」の始まりから数えると、すでに44年の歴史を持つことになる。

ここ天神3丁目の店も、最初からひとりで両方の「貘」を切り盛りし、おそらくどんな危殆に瀕してもこの
場所をここまで守り抜いてきたオーナー、小田律子の苦闘なしにはあり得なかったと言ってもいいだろう。

「屋根裏貘」と、明けて1月4日オープンの「アートスペース貘」が、ずっと互いを支え合ってきたことはよく
知られるとおりだ。あれから40年が経つ。時代はすっかり変わってしまった。この通りの賑やかさも様変わり
した。それでもその名の通り屋根裏部屋のごとく隠れ家のようなここだけは、ほとんど開店当時のままの姿で
福岡・天神3丁目の交差点のすぐそばに今もある。風雪に耐え、とよくいうが細い古びたビルの2階にあって
このふたつの「貘」も、多くのときを耐え抜いてきたのだろう。

僕もあの開店の日の、人もまばらなクリスマスイヴの夜から、ながく「貘」をみてきたが、これまでもそして
今も小田律子の優しさには、ハラハラしどうしなのだ。彼女のように稀にみる強靭な意志と頑固さ、それに
安息というものを知らない体を持っていてさえも、である。

きっと小田律子という比類のない個性が、「貘」を、そして〈明日なき画廊〉をこんなに遠くまで引っ張って
きたのだと思う。こうして時代は巡っても、若い子たちが今も「貘」を求めてやって来てくれる。
それぞれのかけがえのない「時」を過ごしに。うれしいことだ。それはあの頃と何も変わらない。ただそれを
見つめてきた僕たちが年を重ねたことを別にすれば。

そうして今日から明日へと日付が変わろうとする頃。いつものとおり店に流れ出すトム・ウェイツ「Closing Time」。さあ、またはじまるのだよ、そろそろ帰ろうと、呻くように絞り出すような声でトムが客たちの肩を
やさしく撫でる。朝焼け、光り輝く星々…。希望は今夜にも溢れ、彼や彼女たちの上に降りそそいでいる。
この悲惨きわまりない、今も。

それでも、どこまでも。もっと先へ行こう、先へと。

2016/12/20 (火)

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美術折々_79

「前衛」は、どこに

先週12月17日(土)、福岡・天神の明治通り沿いにある期間限定の新刊書店、Rethink Booksでの
「釜山ビエンナーレ2016」報告—アジアの中の日本・前衛・美術— と題した、2時間余りのトークを
聴いてきた。

トークは、美術評論家・椹木野衣、画家・菊畑茂久馬、福岡市美術館学芸員・山口洋三の3氏。

すこし説明をしておくと、椹木は、このビエンナーレの日本作家を担当した3人のキュレーターの内の一人。
菊畑は、今回その出品作家の一人で、1961年の作品「奴隷系図(3本の丸太による)」を再制作し出品。
山口は、「九州派」の調査研究の関係から、椹木からの依頼を受け菊畑の再制作の仲介をしている。

僕は、このビエンナーレ(11月30日終了)を見ていないので、ここでその展覧会の詳細は語れないが、日本に
関わることについて、この展覧会の報告からはよく分らないことが幾つかあったので少しだけ触れてみたい。

まず、今回の企画を担当したアーティスティックディレクターである中国のHOW美術館館長のユン・チュガプ
によるプロジュエクト.1「an/other avant-garde China-Japan-Korea」における「1945年〜1980年代の
前衛」という視点。

おそらく、1910年代のヨーロッパに端を発する「歴史的アヴァンギャルド」を踏まえながら、アジアという
近代、わけても中国・韓国・日本におけ各国の戦後のそれこそ分断的な「前衛」に接続しようと試みていると
思うのだが、日本でいえば1970年代以降の「反芸術」の芸術化、「前衛」の消失のあとの、むしろ当の前衛を
否定批判したはずの「現代美術」の崩壊といった、私たちの経験を踏まえれば「1980年代の前衛」など
果たしてなおも可能なのか、いやもし不可能というなら少なくともこの日本に対し、その「前衛の不可能性」
あるいは「不在」をこそ、このビエンナーレで突き付けて欲しかったと思う。

いわゆる「アヴァンギャルド」とアジアにおける、あるいは日本の「前衛」とは、どう異なるのか。

そして椹木野衣は、もっと意識的に「1945年〜1980年代の前衛」という視点を、あえて大きくはみ出して
いる。それは岡本太郎「森の掟」(1950年)から、2000年代の若いChim↑Pomの「千羽鶴」までを接続し
取り上げることによって、むしろ〈前衛〉への問いを拡散させていたように僕には思われる。これでは若い人
たちに、今もってこの日本にまるで「前衛」というものが現存しているかのように受けとめられるのでは
ないだろうか。僕にはそのことが、椹木の言う「核戦争と無条件降伏の結果が戦後、逆説的に日本の前衛美術の
『豊かさ』を形成した」のだとはどうしても思えないのだった。

それともう一つ。これまでずっと福岡に拠点おいて活動してきた菊畑茂久馬が、今回のビエンナーレ出品で
55年振りに再制作の機会を得て、はからずも自画自賛することとなった「奴隷系図(3本の丸太による)」が、
それほどいい作品だと、僕にはうなずき難い。

それよりも今では菊畑の代表作とされ、日本の前衛美術を語る上で重要な作品のひとつと言われる同じ1961年の、あの二本の丸太と無数の五円玉を使った作品「奴隷系図(貨幣による)」。
これを発表後、「作家として恥ずかしい」、「この世から消してしまわないといけない」と思っていたと、
すでに80歳を超えた菊畑の口から初めて聞いたこの日の言葉は、僕には以外で、新鮮だった。結局この意志は
覆され東京都美術館からの依頼による1983年の再制作となる。思えばもう33年前になるが、僕もそれを東京都
美術館で初めて見たが、いわば失敗作と代表作がこのように紙一重、いや矛盾としてあるということの際どさを、いま改めて思う。「再制作」というのは、時にこのような皮肉をもたらすのだ。

それにしても、日本という近代以後に登場した「前衛」そして「反芸術」から「現代美術」。そしてそれら亡きあとの「アート」。私たちは、いまもこの国の『美術』というものが一体何であり、あろうとしているのかを
問いつめえないまま、似たような〈錯覚〉を繰り返してはいないだろうか。

もうすぐ2016年も暮れて行く。
「日本・前衛・美術」とは、ありし日の幻なのか、それとも現にあり続けるものなのか。
そのとき我らの、こんにちの「アート」はそれらと、どうつながっているのだろう。

2016/12/14 (水)

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美術折々_78

越えねば、ならなかったもの

10月に出版された、画家の野見山暁治と福岡市の画材店・山本文房堂会長の的野恭一の五十年にわたる
交友を軸にした対談本『絵描きと画材屋』(忘羊社、2016年)。

その中で、野見山は戦前の1933年(昭和8年)頃当時「炭坑町に住んでいた中学生のぼくは、八里の
山坂を越えて福岡の街まで自転車を漕ぎつづけて、油絵具を買いに行った」と述懐している。

飯塚、田川方面と福岡を結ぶ道に、八木山峠を越えて行く旧篠栗街道があった。
「八里の山坂」とはこの八木山峠のことだ。

おなじ峠越えでも、かつて読んだ上野英信の『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年)の中には、戦後1950年代の終り炭坑末期の小ヤマ圧制にあえぐ敗残を強いられた坑夫たちの姿があった。食うに食えない
坑夫たちは、餓死寸前の体力をそれでも絞り出すようにして、この八木山峠を歩いて越え福岡市まで60Kmの
道のりを、みずからの「血」を売りに行ったという。金に換えるためにの売血である。

先日、福岡からその八木山峠を車で越えた。田川市美術館での開館25周年展の『沸点』を見るためだった。
美術館に行く途中の国道322号沿いにある、1959年に建てられたという旧「後藤寺バスセンター」
(今年9月末に閉鎖)も、すでに人影はなくコンクリートの廃墟と化していた。
ここにも炭坑という〈近代〉が置き去りにしてしまった「炭都」の、癒えぬ傷跡の深さが今に残る。

炭坑と「筑豊」という日本近代のエネルギーが生んだ、その栄華と衰退。人ひとりの意志というものは、
どのように強靭であったにせよ、時に容易に押しつぶされ、踏みにじられもするものだ。
容赦ない時代の奔流は、どんな大地をも非情に洗い流して見向きもしない。
だが、それで済ませられていい訳はないはずだ。

越えねばならないもののために。
古くより、どんな思いで理由で、人はいくつもの「峠」を越えようとしたのだろう。
「峠」そのものは、何も語ってはくれないが、それを知る「人」だけがそこを越えたことを記している。

2016/12/6 (火)

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美術折々_77

ハロウィンのなかの「箱女」

先週夜のNHK TV『ドキュメント72時間』は、東京・六本木の街角、10月末のハロウィンを取り上げていた。

年々高まるハロウィン熱。この時期、大人から子どもまで、さまざまな工夫をこらした仮装や仮面の人たちが
街に溢れる。日本ではバブル期以後広まったアメリカ経由のイベントの一つにすぎないが、それでもつかのま
自分たちが楽しみ、はしゃぎ、それをまた知らない誰かに見せる。そこにビジネスもどん欲に絡みつつ、
この国のあちこちで、街にいっそう賑わいをもたらしますように、という訳である。

それはそれとして、その中で僕の目をひきつけたのは、二人連れの若い女の子たち。
その仮装はいたってシンプル。ただの段ボール箱を頭にかぶり、そとが見えるように覗き穴を開けただけの
もの。取材側もよく見逃さなかったものだ。何よりすごかったのは、その格好よりも女の子の、冷徹冷静な
コメントだった。

「一方的に見ている。失うものがないんです」、「ネットとおなじで」と、さらりと語る。

聞けばこの仮装は、安部公房の小説『箱男』をモチーフにしているという。
(安部公房の箱男は、頭だけでなく腰まですっぽり被って、箱の中から外界を眺め彷徨う、まぼろしのような
 不在の、「匿名の夢」を、いまでいえばホームレスのような男に仮託し様々な要素を散りばめた実験的小説。 1973年)

なるほど文学とハロウィンか、なかなかやるな、と思った。
しかし、「一方的に見ている。失うものがないんです」というこの、ある種の「つよさ」はなんだろう。

段ボールという紙の箱で外界と仮にでも遮断された「わたしだけ」が、一方的に世界を見ている。まるで透明
人間じゃないか。逆からいえば遮蔽された、わたしは「見られていない」という奇妙な安心感を、この二人組の若い女の子たちは互いに体験していることになる。

もちろん、「失うものがないんです」というのは強弁のようにも受け取れるが、それでも「見られていない」
ということが、どれほど私たち人間というものをかりそめにも強くすることか。逆にいえば、それほどに不安で失うものばかりの、私たち人間の「よわさ」を告白していることにもなる訳だ。同じ安部公房の小説『砂の女』や『壁』にも見られる〈自我〉のねじれとでもいうか自己と他者をめぐる、帰属を志向しながらも行き場のない葛藤は、いまのハロウィンの若い女の子たちの仮装にも、じつは顔を出していたのだ。

では「仮装」のない「人間らしさ」というものが、はたしてあるのだろうか。
あるいは「人間らしさを失わない」ということは、どういうことなのか。じゃあ、いつの時代なら
「人間らしさ」があったというのだろう。なにも人は「人間らしく」生まれてきた訳ではない。

誰もが死にいたる〈成長〉の過程において、もしかしたら「人間」になれるかも知れないという、そういう
かすかな希望にも似た生き方において、はじめて実現されもするし、人間「らしさ」というものにも、まれに
出会えるのではないだろうか。僕はそう思う。

TVで見たハロウィンの箱男ならぬ「箱女」に、おもわず触発されてそんなことを思いなおす初冬の夜だった。

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