元村正信の美術折々/2020-02-01

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_254

見た夢でも 現実でもないもの

だれしも寝ている間に夢を見る。でも不思議なのは、その内容よりも眠っていて目をとじているのに、なぜ「見る」ことができるかということだ。
それは先天性盲目であっても、視覚を欠いた闇の中に記憶のような感触を体験しているという意味では、夢を見ていることに何ら変わりはない。

しかし「夢を見る」というけれど、現実には夢は「見た」ことの告白かその記述でしか語れない。脳科学者たちからすれば、それは目覚めた直後に脳内で再生、固定されそれを私たちが記憶するからだと言うが。僕の理解からすれば、つまり脳内の視覚野にはかつて何かを「見た経験」が(断片的あるいは統合、歪曲、合成されたものを含め)恣意的かつ曖昧あるいは鮮明に蓄積されていて、それを私たちは睡眠中に覗いているということになる。ただそれが意識としてか無意識によるものなのかは分からないが。

いずれにせよ脳の中には夢のようなものや、かつて見た記憶がつねに複雑に流動しシャッフルされていて、私たちが覚醒している間も目という視覚器官を介して外界の刺激を受容するだけでなく、逆にいまこの瞬間にも見ているものにそれらの記憶が重ねられ投影されているのかも知れない。見るということは、そう言うことなのだろうか。でもなぜ人の脳は夢という形を残存させて来たのだろう。そうしなければ現実という重みに耐えられなかったからだろうか。

夢うつつと言うが、この現在にあってもいま目の前に広がる風景や人も物も、そういった現実というものに逆流した脳内記憶がフィルターのようにかぶさっているのなら、自分がたったいま見ているものさえ不確かで曖昧なものに思えてくる。

記憶とは、けして過去だけのものではない。たえず歪められ忘却され断絶しながら現在的に内面化されるものであるなら。見るという経験は、同時にそんな記憶を呼び出す瞬間でもあるはずだ。見ることもそうやって歪められているのかも知れない。

たとえ夢と現実が、記憶という透明な皮膜を通して交わり語り合っているのだとしても、見るということの向こうにある、いまだ記憶なき無垢なる未知のものに、私たちはどこかで出合えないだろうか。夢とも現実ともことなるものに。
それには渋澤龍彦が言ったように「すべてをアレゴリー(寓意)とメタファー(隠喩)の中に解消して」しまうしかないのだろうか。

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