元村正信の美術折々/2016-08-19

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_65

大人にとっての、夏の意味

あの71年前の悲惨と荒廃、瓦礫の記憶も、そしてそれを誰かが体験し見たことも、いつか子が親を失うように
して繰り返し少しづつ消えていく。ただきょうという日の、勝敗と快不快の清算させ済めば、本当に明日は
やってくるのだろうか。何もなかったかのように。

ギラギラと照りつける太陽。全身に吹き出る汗をぬぐいもせず、ただただ肉体は地を踏みしめ、のた打ちまわる人たち。あるいは、エアコンの効いた快適な部屋での思考、充分な水分や美食の補給そして満ち足りて眠りに
着く人びと。今もって、この両者は矛盾対立しているのだろうか。

私たちの「夏」さえも、いつしか二極化されたのか。はたして71年前のあの日は「岐路」だったのだろうか。

ベンヤミンは言った。
「いたるところに道が見えるので、彼自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間が
どうなるのか、分らない。既成のものを彼は瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫のなかを縫う道なのだ」(『暴力批判論』岩波文庫 )

私たちの生は、どんなに二極化を余儀なくされてもなお、現在も形を変えて続いている「荒廃と瓦礫」の上を
踏みこえ歩まねばならない。ひと夏の炎天下と寝苦しい夜を抜け出ていくこと。
ベンヤミンがいうように、私たちが「瓦礫のなかを縫う道」を行くには、どうしてもその方向を見極める力が
いるのだ。

大人にとって夏の意味は、今も破壊と再生という虚偽の手法によって繰り返し続く、あらたな荒廃と瓦礫という
「美しき創成」の誘惑とその地雷のあいだを縫っていく道を、巡りくる八月を、ひるむことなく自らのものに
できるかどうかではないだろうか。

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